HISTORY

高崎問屋街の誕生

高崎問屋街は、高崎市内の卸商社が郊外に団地を造成して問屋の集団化を図り、その機能を強化する目的で結束し、昭和38年4月に母体となる「高崎卸商社街協同組合」を設立。 通産省の流通機構構造改革の一環として、昭和42年に11万坪という広大な土地に、市内卸商社約170社が集まり、日本で第1号の卸商業団地「高崎問屋街」が誕生しました。 以来、北関東の流通の中核拠点としての地位を築いています。
高崎問屋街の誕生

昭和40年代

急成長を遂げる問屋街も手狭になり昭和47年には二次団地造成を開始し、48年には町名が 「問屋町西一丁目」と決定。オイルショックにもめげずに益々順調な発展を続ける中、昭和51年には 地元待望の福田内閣がついに誕生。次の10年に向けての更なる飛躍に、大きな 夢と期待が益々ふくらんで来ました。
高崎問屋街の誕生10年の経過

昭和50年代

昭和55年には「問屋町センター第2ビル」が完成、57年には上越新幹線が開業し、同年に第二次上州内閣の中曽根内閣が誕生。また60年には関越自動車道の前橋・新潟間が開通し、益々流通拠点としての高崎問屋街の重要性が増して来ました。世の中にはニューメディアなる言葉が氾濫し、何かが変わろうとしている予感を感じさせました。
高崎問屋街の誕生20年の経過

昭和60年代

昭和63年に新組合会館が完成し、新しい時代の問屋街の出発点となりました。時代は平成へと変わりその平成景気の目覚しい経済発展から、バブル崩壊へ。社会全体の構造が再構築を余儀無くされる中、高崎問屋街もこの時代の渦巻きの中で、吹き飛ばされない強靭さを求める時期となりました。そして生まれたのが愛称「ビエント 高崎」。上州の風、情報の風、物流の風、文化の風を高崎問屋街から吹き出す様を象徴しております。
高崎問屋街の誕生30年の経過

平成へ

平成9年の団地完成30周年を機に、スペイン語で「風」を意味する「ビエント」という愛称が決定し、以降の10年は大きな変革の風が吹きました。平成12年に問屋町まちづくり研究会(現・まちづくり委員会)が発足。高崎問屋街に相応しい街並みを構築するためのルールづくりに取組み、平成16年4月に「高崎問屋町地区計画」が施行されました。これにより地区内に風俗や不要な乱開発施設の進出を食い止めることができました。同年10月には請願新駅「JR高崎問屋町駅」が開業。これを機に、大手企業や大学の移転進出など街の発展が加速します。さらに、人が集い憩う街を目指して、駅開業に合わせて市民対象の大販売会「上州どっと楽市」を開催。以降、年2回開催し、毎回3万人を超える集客で地域活性化に貢献しています。これらの取組みが評価され、国土交通省から「まちづくり月間国土交通大臣表彰」と、日本都市計画協会から「日本まちづくり大賞」をダブル受賞するなど、内外から大きな注目を集めました。
高崎問屋街の誕生40年の経過

そして50年

平成19年に団地完成40周年を迎え、まちづくり効果による新たな賑わいが加速しました。平成22年に国と高崎市の支援を受けて、防犯カメラ 付き街路灯91本を団地内に設置し、この年には「問屋街わけあり大処分市」(現:「高崎問屋街大感謝祭」)もスタート。安全安心で人が集う街のイメージが定着してきました。すると、群馬パース大学の移転をはじめ大手住宅設備メーカーが次々に問屋街に進出し、JR高崎問屋町駅の利用者が増大。通勤通学の人々や来街者で年を追うごとに賑わいが増えていきました。このようなまちづくりへの取組みが評価され、平成23年に全国4万6000ある中小企業組合の中から当組合が「地域活性化貢献組合大賞/中小企業庁長官表彰」受賞の栄に浴しました。平成26年には組合員の土地を利用した新たなショッピングモールも誕生。一方、平成26年には組合の新展示ホール「ビッグキューブ」が完成し、新たなシンボルとして地域活性化に大きく貢献しています。このように完成から50年を迎えて、高崎問屋街は高崎副都心として地域発展の重要な役割を担っています。日本で最初の卸団地として、次の半世紀の飛躍を目指します。
高崎問屋街の誕生50年